黄金の六十年代

黄金の六十年代
2019-08-19 09:49:48
テーマ:宗教と哲学

 黄金の六十年代とは、全共闘世代の話ではありません。はたまた、印象的な由紀さおり+ピンクマルティーニによる「一九六九」の音楽プロデュースのことでもありません。マネージメントなどと云うことを賢しらに論じ立てて経営論が万能であるかのように国の行く末にさへ口出しをする経営族や、現下の世相に対する私の違和感を述べてみたい。

 ひとつは、企業なり組織や一個の職業を”全て”と感じる生き方、入れ込む生き方はなるほど立派ではあるが、人を貧しくする、人生と云う舞台を一面的にし貧しくする。むかし日本地図を造った伊能忠敬のことを調べていた時に感じたのは、江戸末期までの日本人は、世俗的な価値を絶対視する習慣が必ずしもなかった、という点である。忠孝は才能を見込まれて傾き始めた商家に婿として迎え入れられ、家業を盛り返すのだが、しかし誰知ろう、そのとき秘かに抱いていた彼の決心とは,五十までは家業に勤しもう、義理と人情の狭間で、それを境に彼は、家業や生業とは一切関係のない天文学や和式数学や測量の学問を、自分よりも遥かに年下の若い先生である高橋至時の弟子になって、学んだのである。年功などどうでも良いレベルに彼は生きていたのである。その精緻な成果が、日本の津々浦々を回った日本地図作成と云う良く知られた快挙である。つまりこの頃までの日本人は、職業と天職を区別して生きていたのである。職業とは各個の様々なこの世の生業、天職とは天啓のように個人の人格を越えて到来するもののことである。

 他方、一生懸命と云う言葉がある。
 本来は一所懸命の名残りであるとも云う。一所懸命とは平安末期から鎌倉武士を経て戦国時代に至る勃興する武士団が、自らの家門の唯一のアイデンティティの根拠である「所領」を命がけで守った心意気に由来する。つまり個人や私人の観念ではなく、一門や氏族の観念が優先する社会と慣習の仕組みである。つまり土地や不動産と云う目に見えるもののみをこの世の価値と考え絶対視する考え方は当然観念的には貧しいが、大半の古典日本人は一所懸命と云う名の井戸の底の漣を、宇宙とも世界とも観じて生き死を、親子孫数代にわたって永劫とも思える思いで繰り返したのである。生き方として、所詮、貧しい考え方であると言うしかないが、私は笑おうとは思わない。それ以外に選択肢がない場合に、外部の者があれこれ言うことは知的に誠実な態度ではないし、不謹慎なことだからである。
 とは言え、これらの時代にも例外は存在した。西行に始まり、兼好法師をへて芭蕉に至る、わが国の国風に係わる天才たちが辿った道である。わが国には僧籍と云う便利な仕組みがあって、この世では――太政官の制度や士農工商のように絶対的な社会格差や制度とも見えるものがあっても、脱俗して僧になると云う選択肢において、階級制や社会的慣習のあれこれを超えることが可能だったのである。西行が追いすがる妻や子を足蹴にして脱俗したと云う伝説にしても、兼好や芭蕉が僧態をとったのも、階級離脱の宣告であった。ゆえに彼らは低い身分でありながら、皇族や王族、大貴族たちと対等な立場で関わることができたのである。また、茶の湯の茶室の構造に躙り口と云うものがあるが、狭い躙り口を潜り茶室に入席するとき、世俗の身分を捨てることが自明のこととして同胞的認識として含意されていた。利休もまた僧態の姿をとっている。茶会や連歌の会において、あらゆる世俗や階級を超えたところに文化の価値を認めた彼らの心意気は、さながらに徹底的に世俗化された時代のなかにあって、なにゆえに天才と云う種族がこの世にあるのか、人類史には存在するのかという説明の一端にはなっている(秀吉の黄金の茶室に対して、侘び寂の三畳茶室をぶつけた彼の心意気を偲んでほしい)。

 私は徹底的に世俗化された社会のなかで、井のなかの蛙のように生きざるを得なかった常民の生き方について述べて来た。また、常民の在り方を照らし出すために、浮世の波間に見え隠れはしつつも、大半の古典日本人(常民)の生き方を相対化するために、例外的に存在する天才たちの生きざまについても述べて来た。
 ところで先に私は、古典日本人の井の中の蛙論を、「笑おうとは思わない」と書いた。環境や状況の中で他に選択肢がない場合、あれこれ「外」のことを論じるのは無益だからである。しかし経営論やマネージメントに現を抜かす現代日本人が、井の中の蛙論に自らがあることを知らない、となるとこれは愚かとしか言いようがない。なぜなら現代日本人には他に有り余るほどの「選択肢」が与えられているからである。にもかかわらず、主体性や選択権を恣意的に放棄し、その他大勢の気楽さに身を委ね大多数の一人となる、個人的責任を放棄放擲し、個が個人である所以を探りもしないあり方は、笑われても仕方がないことであるような気が私にはする。

 以下は私の身近にいる知人の話しである。
 彼は満期定年を迎えたとき、会社の再雇用を遠慮し辞退した。在職時に営々と蓄積した専門知識を活用して、働き方を転職した分野では会社の方に合わせてもらった。他方において彼は大学院に入り直して芸術の勉強をし、さらに余力を借りて他方で見切った筈の定年までの職業知を活かすべく専修学校の教師となった。つまり彼はこの他にも家庭人として妻とともに四人の子供たちを育てながら、あるいは老齢期に深刻化した両親の介護を自らひとりで引き請けながら、二人が息を引き取る間際まで死に逝くもの達の手の指先を握りながら、死に逝くもの達にこの世の温かみを伝えるべく、途切れゆく意識のなかで、惜別の辞をこころの心拍計に刻み伝えながら、多くの生を極限の時間のなかに同時に複数の人格として生きたのである。

 この間久しぶりに会ったとき、君の生き方はどうだったのか、と聞いたことがある。六十歳を境に鮮やかにギアチェンジするように切り替えた、勝負どころを心得たマラソンランナー風の生き様に、黄金の六十代、六十年代と云う言葉の形容をこちらは勝手に想像してみたのである(彼は全共闘世代でもあった)。彼の答えは、どの分野に於いても自分は不十分で不徹底であったし、介護は悔いを残した、と云うものであった。器質的な病ゆえに安らかに死なせてやれなかったのは息子としての自分の責任である、と云うのである。介護とは経験が生かせない領域で、例え何度生き直しても経験知が生かせない体験である、としみじみと述べた。できるだけのことを自分はした、と云うものたちを自分は決して信じないだろう、とも。

 死者を看取ると云う行為が、人間のなしうる最大の、そして或いは最後の仕事であると云う所感が滲み出ていた。これは先に述べた、職業とも天職とも違う概念なのである。親だから子だからというのではなく、自己の精神の位相のキャパシティの問題なのである。
ひとはこの世に生を受けて、同じ人間としてただ一度だけの人生をただ一度だけ人は生きる。いま、ここに、ありありとした固有な自分自身として屹立し、一回性を持った者として!他ならぬ他人ではない己自身として、ひとは人間になる。単なる生物種としての「ひと」の概念を越えて、遂には人間になる、と云う意味はこういうことなのである。己のキャパシティに思いを致ことくこともなく、己は己でありしかも己でしかない由縁を存在忘却し、世人として、習い事のように「大衆」と云う名の仮面に隠れて仮初の人生を送る、ただ一度の生を生を受け、ただ一度の生を生きるにしては勿体ないことである。
 人間存在とは、かくあったものとして過去形や現在完了形においてあるものではなく、かくあり得るものとして、常に開かれた存在である限りにおいて、ひとは語の真の意味で正確に、人間たり得るのである。

この記事へのコメント